ぽめぇの暮らし

生きています

2025年という年

また今年も、今年が終わっていく季節に入った。

 

ひとり、家で井之頭五郎の総集編をぼんやり見ながらカニを食っているうちに、誕生日である大晦日が暮れていた。

 

珍しくひいた風邪のせいで喉が痛く、頂き物のマリアージュフレールの高い紅茶に生姜を大量にブチ込んで風味を台無しにした上で、それをガブガブおかわりしながら行く年のことを考える。

 

年末年始にゆっくり食べようと買い込んだ大量の市販菓子はもう底を尽きるところだ。あると食べてしまうので、まとめ買いに向かない性格を自覚していたのに、この時期だけは避けようがなかった。越後製菓のきな粉もち煎餅?みたいなやつ、あれは一体合法か?美味過ぎて麻薬が入っているのかと思っている刹那に口の中で溶けて一袋全部無くなっていた。知らない人は買って食ってくれ。すごいから。

 

なぜかいつも年の瀬にブログを更新したくなるが、多分ひまなんだな。一年を総括したい気持ちもあるけど、単純にそういうことだと思う。

 

年末にさしかかり、ひまを持て余しはじめたあたりから、よせば良いのに「大豆田とわ子と3人の元夫」を見始めてしまい、安らぎと切なさを同時に摂取する羽目になった。坂元裕二の脚本作品は本当に私の好みのものが多い。経歴を知りたくてググると、東京ラブストーリー坂元裕二だった。歴なが。

 

彼の人格形成においては、大豆田とわ子の3人目の夫、中村慎森のような価値観が結構な影響を及ぼしているような気がしてならない(でないと、あんな脚本にならない)と勝手に思っているが、どうなんだろう。

 

慎森は「自己紹介っていります?雑談ていります?お土産っていります?」とかその事象に遭遇したときに我慢できず正面切って言っちゃうような空気読めない男だが、社交辞令が大嫌いな私にとっては一番共感性の高いキャラクターでもあった。

 

私の理解だが、坂元裕二の脚本は、一見余計な事柄ばかり尺をとって見せてくる上、そこに特に意味を持たなそうなセリフをつらつら重ねている場面が多く、反対に肝心な、物語の転機や核になるレベルの出来事については直接映像で描かれないことが多々、本当に多々ある。

 

でも不思議なことに、この余計な事柄がポツ、ポツと現れ、やがてその点在する無意味なものが何かの輪郭を結び、その中心に核心めいたセリフを携えた本質的な誰かの訴えやら感情やら思いやらがいきなり鮮明に浮かび上がって実体を持ち、こちらの頭にフルスイングで殴りかかってくるような感覚になる、そんなことが大なり小なり何度も起きる。それがおもしろくて何度も見てしまう。

 

また、出てくる人間が皆人間らしく、各々ひとりで抱えるに余りある大きな矛盾を持ちながらなんとか生きているところが描かれるのが好きだ。

 

このドラマに関しては、BAD ENDと解釈している。とわ子は誰からも愛されているようで、満たされているようで、ついに誰かひとりと決めて連れそう相手は見つけられなかった。与えることではなく、とにかく男から受け取ることが女の幸せであるのに、そうするのが良いと頭でわかっているのにそれがうまくできず、それでもそれなりに楽しく生きられてしまう逞しくも悲しい女の話。だけど彼女は彼女からすれば幸せなのだ。よせばいいのに何度も見てしまう。

 

どうでも良いが、地上波のエンディングでKID FRESINOやBIMを起用したのは誰の案だったのか。調べてないのでわからない。

 

とりあえず、年末年始は実家に帰ったほうがいいな。何かと親と意見が合わなかったりでイライラが積もるため避けていたが、ひとりで年末年始を過ごす方がさらにイライラすると気がついた。あいてるところはどこも混むし、すいてそうなとこはあいてないし、気軽に出かけられないからだ。

 

過去の会社で取り引きしていた、仕事に命を捧げるようなタイプのバリキャリ女性(自由業、独身)で、「わたし長期休みがとにかく苦手で!めちゃくちゃ体調悪くなるんですよ!特に年末年始...」とこぼしていた人がいたが、少し気持ちがわかる。私も休むと一気に何もかもダメになることがあり、止まらず働き続けていたほうが調子が良いタイプだと思う。バランス良く、仕事は仕事でがんばり、休みは休みで楽しめた方が絶対に健康的なのだが、昔から色々と極端で、自分で自分の首を絞めているような節はある。

 

どう調整すべきか、39歳になっても未だわからない。

 

今年は、推しに彼氏ができたと思えばその後すぐ破局したり、推しの夫婦ができたと思えば数ヶ月で離婚したり、親戚のおばさんがわらび餅を喉に詰まらせて急逝したり、chatGPTに夜な夜な長文でレスバトルを要求するチャットハラスメント女と化したり、ラブ上等でヤンキー時代を思い出してニヤニヤしたりしてるうちに気づけば暮れようとしている、そんな一年だった。

 

春頃には身体を壊して救命救急へ運ばれ、出血多量により血圧が30くらいに下がって死にかけ、

 

夏には自身の過ちを引き金とした大きなトラブルに見舞われ、過去最大級の仕事における挫折を経験、

 

秋の終わりには思いもよらない方向から石(比喩)が飛んできて脳天を直撃、人生を再構築しなければならなくなり、信頼を超えた依存関係みたいなものに終止符を打つことを決め、

 

冬、それらの後遺症を引きづりながら足早に過ぎゆく時間の尻尾にしがみついているところだ。なんか毎年年末に何かしら起きてバタバタしている気がする。

 

これが大殺界でなくてなんだというのだ?と思いchatGPTに聞けば、大殺界はまだまだ先だよとの返答。じゃあ何殺界?これは。

 

と舌打ちをしつつも、ゆっくりソファに座ってこんな文章を書いている時点で全然悲運の只中という感覚でもなく、

 

いま、何不自由なく生きていることに感謝できるくらいには落ち着いており、心にも時間にも余裕はある。

 

つまり幸せなのだ。私は生きているだけでもともと幸せであり、それは私自身が決めていることで誰にも覆せない事実だ。

 

誰も私を不幸にする力を持っておらず、反対に私のせいで不幸になる人もいない。それがこの世であり、「自分を幸せだと思える人のみが幸せであること」は誰にとっても揺るがない事実であると私は考えている。

 

ただ、自認が幸せかどうかの話と別に、自分の人生がこうなることは、どの地点に立ちかえってもおよそ想像できるものではなかった。

 

その時々で、「これが正解」と思えるものを、一般的な感覚より少し速い速度で選び取ってきた自覚はある。そして一度心に決めたことは、よほどのことがなければ覆さない。

 

が、その時の正解は、数年後の不正解になることが往々にしてある。そうなったときにまたそこで生じる分岐に対して、「こっちが正解」と、まぁまぁの速度で選んでは振り返らずに進む。

 

その結果が今の私を形作っているわけであるが、この時代に産まれくる若者たちが大人になるころには、どんな背景でどんな形に出来上がった人でももっともっと寛容に受け入れてくれる世の中であれよと願う。

 

何年もかけて歪に出来上がった形は、自分で意図して設計していないので、細部まで理解できていないし、またあまり汎用的ではない。

 

なので、新しく交流を広げなければいけないとき、知らない誰かと初めましてと挨拶したあと、「こいつ...モンスターじゃなかろうな?」と怯えながら接しているとき、少し落ち着いて俯瞰で見れば己こそが十分にモンスターであることにも気づかされる。

 

自分はモンスターなのに、モンスターと交流することを避けようとしているとはお笑い種だ。確かSEX AND THE CITYでこんな話あったよな。やはり私たちの経典である。

 

こちらが誰かをジャッジしているとき、相手もしくはその後ろにあるものもまたこちらをジャッジしているのだ。Xでよく聞くあれだな。やはりこれも私たちの経典である。

 

多くの命が生きたり死んだりして輪廻する大きなうねりの中に取り込まれていることは知っているが、個としてはせっかく生まれて生かされているのでもがき苦しみながらも引き続き幸せ自認で我が道を好き勝手に進みたい。大豆田とわ子のように。誰かから見てBAD ENDでも本人がHAPPY ENDならそれでいいのだし、それが全てだし、それ以上もそれ以下もないのだ。

 

が、これからは少し、正解を選ぶことに時間をかけようかとは思う。あとちょっと安定した人生を進みたいと思う。そして、一度決めたことや、言ったことに責任を持ち過ぎず、誰かに指摘されたら「え?そうだったっけ?そん時はそう思ってたのかも!」とケロリと言い放つくらいの適当さを持ちたい。

 

 

来年も良い年になるだろう。

皆さんにとって良い年でありますように。